書家にとって臨書が最後の砦。
2000
作品の良し悪しと臨書力は概して比例する。
2002
臨書で栄養補給しているときのチャンネルと作品制作のチャンネルは全く違う。
吸って吐いての呼吸のように。
臨書から創作に移行する際、完璧に創作モードになるまで3、4日かかる。
理性と感情。
模倣と創作の勘の狭間を行き来する。
2004
書家にとって臨書は呼吸で言う「吸う」作業、創作は「吐く」作業。たくさん吐き出すには思いっきり酸素を吸い込む外ない。一見相反するようなこの二つの作業が渾然と融合し連動し呼吸となって始めて、最高のパフォーマンスを掴むことができる。
2008
「臨書」は、ややもすると没個性的と履き違えられがちであるが、人の顔が皆違うように古筆の書き手と同じものは何一つなく、造形上も精神的にも完全にシンクロすることは永遠にない。
その違いを時をかけて見出し、否定してもしきれないものが己の個性の芽生えとなる。即ち模倣と創造は表裏一体。臨書とは創作であり、模倣とは創造の「ふるさと」。
2008
「書家の醍醐味は臨書にある」と師は言った。
1995
「原本より上手くないと臨書とは言わない、古典は率意の書だから…」 と師は言った。
1995
古典法帖を手本にしながら書家は何百回、何千回も繰り返し模倣する。 原本より上手いというのが臨書の最低条件であるならば、 現代書家の臨書と呼ばれる行為は「臨書」と呼ぶにはお粗末すぎる。
1995
勿論、師の意味した「上手い」ということは技術上の上手さである。 上手さは、書の上等さと比例しないものである。 しかし、清書したでもなくサラッとしたためた率意の書を横に置き、 型や技術すらマスターできない自称書家の字を「書」と言ってしまってはで歴史上の能筆に対して本当におこがましい。
1995
勿論、師の意味した「上手い」ということは技術上の上手さである。 上手さは、書の上等さと比例しないものである。 しかし、清書したでもなくサラッとしたためた率意の書を横に置き、 型や技術すらマスターできない自称書家の字を「書」と言ってしまってはで歴史上の能筆に対して本当におこがましい。
1995
お稽古の前後のお掃除。師匠のお宅にお邪魔して稽古をつけて頂く上で大切な作業である。
途中から来て途中で帰ってしまう人はそれをやらない。
お掃除できないような人は、自分の作品上も制作上にもお掃除の概念がないからきちっと整理されていない。
2001
文字を筆で書くとき、刀を鞘に納めるが如く、何事も無かったかのように筆の穂先が立って終わるのが美しい。
2007
筆の穂先は、運筆の最初から最後まで常に紙を食っていないといけない。穂先が浮いているのは筆を使いこなしていないという事。
2007
型すらマスターできないナンチャッテ書家が 「藝術だ」「アートだ」「個性だ」と騒ぐのは本当にみっともない。
2008
徹底した模倣から、その本物になりきり、本物以上に本物になりきること。 そして本物をも食ってしまうほどの模倣をし、 初めて己という姿が自然と浮かび上がってくる。
2008
「随分昔は臨書をしました」「臨書って何ですか」などと言う書家(?)は、 落書家、もしくは筆文字やってますとでも言えばいい。憧れも無く理想も見えず、上も下も分からず自己陶酔型の御目出度い人間である。
2006
臨書をしていて大切なこと。
聴こえない声を聴く。
聴くための聴覚も鍛えておかないと語りかけてくれている事も聴き取れない。
目に見えない物を観る。形を追うのは初歩的なことだ。
「観音聴心」「古典」は、決して裏切らない。 
2004
書の現代性とも絡むことでもある。
臨書にも現代的な臨書とそうでないものとが確実にある。
自分のやっている臨書という行為が能動か受動かだ。
受け身の臨書は習字
主体的なそれは芸術行為となる。
これ、簡単なようで書のあらゆる勉強の中で一番の奥義だと思う。
2010
迷ったら古典に戻れ。
古典が原点
ふるさとのようなもの
これ、書のことだけではない。
2009