※柿沼康二語録は随時更新してゆきます。
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<臨書>
書家にとって臨書が最後の砦。
作品の良し悪しと臨書力は比例する。
臨書で栄養補給しているときのチャンネルと作品制作のチャンネルは全く違う。
吸って吐いての呼吸のように。
臨書から創作に移行する際、完璧に創作モードになるまで3、4日かかる。
理性と感情。
模倣と創作の勘の狭間を行き来する。
<アーティスト>
現代に真に生きているものが生き生きした文化や作品そして現象を作り出す。
良い作家、良い作品で時代に受け入れられるのは稀なものだ。
アーティストは、死ぬまで受け入れられなくても良いという覚悟が必要。
受け入れられる方が気持ち悪い。受けたら徹底的に疑うこと!
大切なのは、普遍性を帯びた学習、生活、そして現代性。
<書く>
書展などに行き、作品をみてると99パーセントの作品の線は生きていない。
字を書いているからだ。臨書や書き込みが足りないからだ。
鉛筆やペンなどの硬質の突起物でかく線、絵画で言う線と”書線”は全く質が違う。
切ったら血の出るような線、それが書線である。
そっと 強く 土臭く オシャレで 格調のある
そんな作品が書きたい。
欲望が多いから作品制作に時間がかかる。
<アバンギャルド>
ただ暴れただけじゃ、前衛でもなんでもない。
直ぐに飽きがくる。
暴れても上品でないと切なくない。
上品で聖なる前衛でないとつまらん。
1ミリでも昨日の自分から前に進む。
その繰り返しがアバンギャルドということだ。
<エターナル・ナウ(永遠の刹那)>
過去、海外において「絵画と比較すると、書は直ぐにできてしまうから、価値が低い」と何度もクレームを付けられた経験がある。しかし、今では「柿沼の書は、書でも絵でもない。新しいアートだ。グレートだ」と言われるようになった。書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない。一切の迷いと妥協を許さず、計算と洗練の果てに生み出されるその一瞬には私の命が燃焼し爆発する。そこに日本文化全体を理解する上で不可欠な時間感覚と魂が存在するのだ。「永遠の刹那」、米国で「Eternal Now-エターナル・ナウ」と私のアートに対して名付けられた所以だ。
「永遠の刹那」、それは、「書」のみならず日本文化全てに内在される神秘性、そして奥義であるという確信を得たことが、この一年の大きな収穫であった。この超然とした時間感覚と気合、集中力の中に海外の人たちは、日本人独特の精神や歴史を見るのだ。そして1アーティストとして存在し、1アートとして成立させるために必要とされるのは、それらを自分独自の新たな方法論で表現しなければならないこと。過去の先人達のお手本をゴミ箱に捨てることから始まる。歴史の咀嚼は勿論、それを踏まえた上で、現在、何百何千年の未来をも踏まえた仮説を立て、自分独自のストーリーを作り上げること。その物語にアメリカ人に酔わせること。
<書>
「まず言葉がありき」というのが書のCORE。
言葉を無視する書家、扱う言葉が時代錯誤している書家、
評価されたいが為に言葉が2の次、3の次になっている書家。
そんな奴らは書家と名乗る以前に根本が解かっていない。
書は格闘技。ろっけんろ~
古典を勉強しないと新しさなどでるはずがない。
一時的ブームやファッションにのせられた泡のようなもの。
マンガみたいな字ばかりが蔓延っている。
格調とは出すものじゃなく、体から自然にでてくるもの。
品があるか、俗っぽいかは書家じゃなくても、見ればわかる。
品格や伝統、普遍性ってのはいくら暴れまくった作品にでも表れてくる。
<墨>
墨汁を使う書家の弟子はみんな墨汁。墨汁は一目でわかる。
勿論、墨汁が本物の墨だと思っている人にはわからない。
やはり墨は手で摺って粒子を細かくしないと良い色、良い伸び方はしない。
絵は多彩な色、音楽には多彩な音質があり、書は墨色一色の世界。
本当に美しい墨色を使わなければ到底他の芸術に歯が立たない。