柿沼康二語録

※柿沼康二語録は随時更新してゆきます。

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<臨書>

書家にとって臨書が最後の砦。
作品の良し悪しと臨書力は比例する。 

「字書きの泡。」2002年8月7日#1

臨書で栄養補給しているときのチャンネルと作品制作のチャンネルは全く違う。
吸って吐いての呼吸のように。
臨書から創作に移行する際、完璧に創作モードになるまで3、4日かかる。
理性と感情。
模倣と創作の勘の狭間を行き来する。

「字書きの泡。」2004年#62

書家にとって臨書は呼吸で言う「吸う」作業、創作は「吐く」作業。たくさん吐き出すには思いっきり酸素を吸い込む外ない。一見相反するようなこの二つの作業が渾然と融合し連動し呼吸となって始めて、最高のパフォーマンスを掴むことができる。
「臨書」は、ややもすると没個性的と履き違えられがちであるが、人の顔が皆違うように古筆の書き手と同じものは何一つなく、造形上も精神的にも完全にシンクロすることは永遠にない。その違いを時をかけて見出し、否定してもしきれないものが己の個性の芽生えとなる。即ち模倣と創造は表裏一体。臨書とは創作であり、模倣とは創造の「ふるさと」。

書の世界-文字の超越「心」(Fole2008年11月号)

「書家の醍醐味は臨書にある」と師は言った。

「原本より上手くないと臨書とは言わない、古典は率意の書だから…」
とも言った。

古典法帖を手本にしながら書家は何百回、何千回も繰り返し模倣する。
原本より上手いというのが臨書の最低条件であるならば、
現代書家の臨書と呼ばれる行為は「臨書」と呼ぶにはお粗末すぎる。

勿論、師の意味した「上手い」ということは技術上の上手さである。
上手さは、書の上等さと比例しないものである。
しかし、清書したでもなくサラッとしたためた率意の書を横に置き、
技術すらマスターできない書家の字を「書」という簡単な言葉で
言い表してしまうには歴史上の書家に対して実におこがましい。

型や技術すらマスターできないナンチャッテアーティストが
「藝術だ」「アートだ」「個性だ」と騒ぐのは間違いである。

徹底した模倣から、その本物になりきり、本物以上に本物になりきること。
そして本物をも食ってしまうほどの模倣をし、
初めて己という姿が自然と浮かび上がってくるものだ。

「随分昔は臨書をしました」「臨書って何ですか」などと言う書家(?)は、
憧れも無く理想も見えずに現状の自分の姿に惚れこんでいる、
進歩不要な御目出度い人間である。

柿沼康二公式ブログ 「模倣」(2006.2.13)

臨書をしていて大切なこと。
聴こえない声を聴く。
聴くための聴覚も鍛えておかないと語りかけてくれている事も聴き取れない。
目に見えない物を観る。形を追うのはのは初歩的なことだ。
「観音聴心」「古典」は、決して裏切らない。

「字書きの泡。」2004年#7


<アーティスト>

現代に真に生きているものが生き生きした文化や作品そして現象を作り出す。

「字書きの泡。」 アーティスト

良い作家、良い作品で時代に受け入れられるのは稀なものだ。
アーティストは、死ぬまで受け入れられなくても良いという覚悟が必要。
受け入れられる方が気持ち悪い。受けたら徹底的に疑うこと! 
大切なのは、普遍性を帯びた学習、生活、そして現代性。

「字書きの泡。」 2004年#8

<書く>

書展などに行き、作品をみてると99パーセントの作品の線は生きていない。
字を書いているからだ。臨書や書き込みが足りないからだ。
鉛筆やペンなどの硬質の突起物でかく線、絵画で言う線と”書線”は全く質が違う。
切ったら血の出るような線、それが書線である。

「字書きの泡。」2003年3月3日

そっと 強く 土臭く オシャレで 格調のある 
そんな作品が書きたい。
欲望が多いから作品制作に時間がかかる。

「字書きの泡。」2002年12月30日

<アバンギャルド>

ただ暴れただけじゃ、前衛でもなんでもない。
直ぐに飽きがくる。
暴れても上品でないと切なくない。
上品で聖なる前衛でないとつまらん。

「字書きの泡。」2005年7月16日

1ミリでも昨日の自分から前に進む。
その繰り返しがアバンギャルドということだ。

「字書きの泡。」2003年12月18日

<エターナル・ナウ(永遠の刹那)>

過去、海外において「絵画と比較すると、書は直ぐにできてしまうから、価値が低い」と何度もクレームを付けられた経験がある。しかし、今では「柿沼の書は、書でも絵でもない。新しいアートだ。グレートだ」と言われるようになった。書のようで書でもなく、絵のようで絵でもない。一切の迷いと妥協を許さず、計算と洗練の果てに生み出されるその一瞬には私の命が燃焼し爆発する。そこに日本文化全体を理解する上で不可欠な時間感覚と魂が存在するのだ。「永遠の刹那」、米国で「Eternal Now-エターナル・ナウ」と私のアートに対して名付けられた所以だ。
 「永遠の刹那」、それは、「書」のみならず日本文化全てに内在される神秘性、そして奥義であるという確信を得たことが、この一年の大きな収穫であった。この超然とした時間感覚と気合、集中力の中に海外の人たちは、日本人独特の精神や歴史を見るのだ。そして1アーティストとして存在し、1アートとして成立させるために必要とされるのは、それらを自分独自の新たな方法論で表現しなければならないこと。過去の先人達のお手本をゴミ箱に捨てることから始まる。歴史の咀嚼は勿論、それを踏まえた上で、現在、何百何千年の未来をも踏まえた仮説を立て、自分独自のストーリーを作り上げること。その物語にアメリカ人に酔わせること。

「字書きの泡。」手に入れた永遠の刹那

<書>
「まず言葉がありき」というのが書のCORE。
言葉を無視する書家、扱う言葉が時代錯誤している書家、
評価されたいが為に言葉が2の次、3の次になっている書家。
そんな奴らは書家と名乗る以前に根本が解かっていない。

「字書きの泡。」2001年4月20日

書は格闘技。ろっけんろ~

「字書きの泡。」2003年5月6日

古典を勉強しないと新しさなどでるはずがない。
一時的ブームやファッションにのせられた泡のようなもの。
マンガみたいな字ばかりが蔓延っている。
格調とは出すものじゃなく、体から自然にでてくるもの。

「字書きの泡。」 2004年#59

品があるか、俗っぽいかは書家じゃなくても、見ればわかる。
品格や伝統、普遍性ってのはいくら暴れまくった作品にでも表れてくる。

「字書きの泡。」 2004年#47

一つのフレーズをリフレインして紙に書き連ねる「トランスワーク」は私の独自の手法だ。書なのに絵のようで、しかし絵でもなく、読まなくても何かを伝える「感じる書」の一形態といえる。書と絵画、日本と海外、それらのきわどい接点を表出することがニューアート、書の芸術性、真の世界性を示唆すると信じている。

書の世界-文字の超越「さくらさくら」(Fole2008年3月号)

<墨>
墨汁を使う書家の弟子はみんな墨汁。墨汁は一目でわかる。
勿論、墨汁が本物の墨だと思っている人にはわからない。
やはり墨は手で摺って粒子を細かくしないと良い色、良い伸び方はしない。
絵は多彩な色、音楽には多彩な音質があり、書は墨色一色の世界。
本当に美しい墨色を使わなければ到底他の芸術に歯が立たない。

「字書きの泡。」 2004年#84

<制作法>
8:2~9:1
テンションを制作直前まで100%、時に120%、ガンガンばっちり上げ、そして、直前に少し落とす。
これが柿沼康二流制作法。
自称「馬鹿走り」という10キロのランニング、途中300m坂道ダッシュ1回、200mの坂道全力疾走1回、
爆音ロックをヘッドフォンで聴きまくる。
誰も来ないアトリエに篭る。
極力食べ物を胃に入れない。
矢吹ジョーになりきる。
ここまでが100~120に上げる作業。
大体、このタイミングの時、家族、友人、スタッフは私の餌食となる。
完璧決まった状態、動物の本能そのものらしい。
しかし、経験上、この100や120の状態では良い作品は生まれない。
そこには感情と興奮、怒りしかない。
制作対象にもよって10%とか20%とか、テンションを少しだけ落とす。
この微妙な匙加減で出来上がるものが全く違ったものになる。
じゃあ、最初から80%とかまでテンションを上げれば良いのかというとそういうことにはならない。
一度半端無く追い込む事、それが私流のアートスタイル、制作前の儀式なのだ。
この比率感覚は、書だけではなく実生活にも関係しているようだ。

「字書きの泡。」テンション

<ランニング>
・チームプレイが嫌いなことからマラソンを選んだ。
・ランニングは作品制作に欠かせない。大体、走っているときに良い案が浮かぶ。
・特別な事が無い限り、ほぼ毎日、約10キロ走る。
・走り終わると体中の毒が無くなったような気がする。
・忙しくて走る暇が無くなると、病気になったり、気分が下降してくる。
・30分位過ぎてから来るランニング・ハイがたまらない。その時、作品のコンセプトや発想などが生まれる。そして、問題点や悩みがほとんど解消される。
・「もう駄目だ」「限界だ」と感じたとき、疲れ果てた心と体を酷使し無理やり走りに出る。酸欠で呼吸困難になるくらい走り続ける。坂道を見つけると足が痙攣するまで疾走する。「ハッ!ハッ!ハッ!」と酸素を体に摂り込んでいるうちに体の細胞がプチプチと呼吸しはじめ、再生してくのがわかる。俺はまだまだやれると勇気と情熱が湧き上がる。これを柿沼流ショック・トリートメントという。
・ipod付けてロック聞きながら走る。
・やはりメッセンジャルな歌詞で激しい方が走りも進む。
・「これが自分の道だ!」と高原山をバックに田んぼ道を自分のペースで走りながら自分を確認する。
・概して、人気の無い方向へ向かって走る。
・タイムはまったく気にしていない。
・字書きなので自然と服は黒が多い。夏場走っていると、スズメバチに追いかけられる。蜂の本能。オレは熊じゃないぞ!
・「おまえはだれだ!」と自分に問いかけながら走っているのかも?
・夏の夕立の中、走りに行くと、雨は何もかも洗い流してくれる。動物にもどった気がする。
・お風呂に入ると自分でマッサージ。冷水浴びて風呂って・・・なるべく翌日に疲れを残したくない。
・持久走用のプロテイン愛用。
・パワーの源、それは走ること。
・50キロにもなる大作用の筆を振り回すためでもある。
・時間を無理やり見つけ、作り出して字書きをするから暇がない。自分の生活で多だ1つわがままで自由、貴重な時間がランニングなのだ。
・ボディー&スピリット、文武両道このバランスは今も昔も変わりない。文武両道だよ!日本人は・・・ 押忍!汗臭最高。

<尊敬>

尊敬とは追従ではなく対決である。
手島右卿、井上有一、日比野五鳳などの書家、そして坂口安吾、岡本太郎、山本耀司、北野武。これら敬愛する巨匠達の世界をこの上なく尊ぶと同時にそこに全身全霊の反逆を加える。そう、彼らがそうして名もない道を拓いてきたように。
「全ての表現は70年代にやり尽くされた」などとよく言われるが、果たしてそうなのか。
尊敬と対決という目まぐるしいパラドックス。
そこに私の求め続ける「上品なアバンギャルド」という姿が潜んでいる。

書の世界-文字の超越「雲月」(Fole2008年9月号)

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